有象無象

半山のビール瓶


左から帝国麦酒、サクラビール、大日本ビール(枠内の帝国の文字が読めますか?)



 屋久島西部地域の照葉樹林は、島内でも唯一海岸線まで世界遺産地域に登録されている貴重な地域の一つであるが、必ずしも手付かずの原生林というわけではない。今でこそ無人地帯であるが、かつては炭焼きや樟脳とりのために開拓が行われた地域である。半山の照葉樹林を歩くと、そうしたかつての開拓の住居跡や五右衛門風呂の釜、食器や水瓶等の生活の跡を垣間見ることができる。
 その中で目を引くのが、ビール瓶である。大日本ビール、帝国ビール、サクラビールといった現在では飲む事のできない3種類のビール瓶が、住宅跡などにゴロゴロと転がっているのである。
 日本でビール造りが始まったのは、明治の初めのことである。
 明治9年、北海道開拓史麦酒製造所(後に札幌麦酒に払い下げ)が開設され、翌年はじめての本格的国産ビールとして札幌ビールが発売された。その後明治21年にジャパン・ブルワリーがキリンビール、明治23年に日本麦酒醸造がエビスビール、明治24年に大阪麦酒がアサヒビールをと明治の半ばに次々と国産ビールが発売され、ビール産業の勃興期を迎える。
 この時期は、シェア争いがし烈を極め、ついに明治39年、札幌、日本、大阪の3社の大合同により、大日本麦酒が誕生した。大日本麦酒は、戦後昭和24年に財閥解体され、日本麦酒(後のサッポロビール)と朝日麦酒に2分割されるまで、国内シェア7割を越える大会社としてビール業界をリードした。従って、大日本麦酒の瓶は、明治39年から昭和24年までの間に飲まれたものである。
 ところで半山の大日本麦酒の瓶には2種類あった。一つはDAINIPPONBEERと英語で書かれたもの、もう一つは、酒麦本日大と右から左へ漢字で書かれたものである。太平洋戦争中、ビールは統制下におかれ、敵性語としてビールが「麦酒」に統一されている。従って、酒麦本日大は戦中に飲まれていたビール瓶で、DAINIPPON BEERはそれ以前のものかもしれない。
 一方、帝国麦酒は、大正元年に設立され、翌年サクラビールが発売されている。従って、サクラビールは帝国麦酒の商品名ということになる。しかし、帝国麦酒は昭和4年に桜麦酒と社名変更を行っており、帝国麦酒の名が使われていたのは、この間に限られる。また桜麦酒は、昭和18年に大日本麦酒と合併しており、サクラビールは、大正2年から昭和18年までに飲まれていたビールということになる。
 以上を総合すると、半山のビール瓶は、明治の末から戦後しばらくの間に飲まれた商品のものであり、帝国麦酒の瓶の存在を考えると、半山でのビール飲みの歴史は少なくとも大正から昭和のはじめまで、確実に溯ることができるということになる。
 それにしても戦後も開拓が行われているが、キリンビールやサッポロビールといった、戦後のものと思われるビール瓶は一向に見かけない。おそらくもっぱら焼酎を飲んでいたのであろう。戦前、半山でビールを飲む、おしゃれな開拓者たちの暮らしとは、一体どのようなものであったのであろうか? (市川)

Ynac通信9号掲載